また春がやってきて...

なかなか更新できない間に桜が散って、大学に入ってから4度目の春が過ぎようとしている。キャンパスは新入生であふれて、活気に溢れている。期待と不安を新しい教科書とともに抱えながら。
僕だってついこの間は…と思うのだけれど、時は過ぎてもう大学最後の年になる。
ここでため息を吐くのは、ぐっとこらえて...
もう一度初心を思い出して、まとめの一年にしていこうと思う。

新しいレンズを、新しい一年に向けて。

半年くらい悩んで、やっとデジカメを購入しました。
新しい相棒は、SONY DSC-WX1です。

今使っているのがPanasonicのFZ8なので、その小ささには驚きです。これなら、いつでもカバンに入れて持ち運べます。
これからはこのWX1で撮った写真をblogにアップしていけたらいいなぁと思います。

The Song Remains The Same.

午後十時過ぎの地下鉄。
色あせた萌黄色の作業服に身を包み、彼は口にする。
Led Zeppelinの天国への階段。あれが好きで、昔めちゃ練習してた。」


彼らの音楽談義が続く途中で、僕は先に電車を降りる。
誰もがお互いの作りだした街のノイズの中に消えていく。
そして、音楽が静かに流れ続けている。

新しい出会い。挫折。まだ見ぬ未来。

新しい大学に入って、最初の学期が終わった。不安でいっぱいだったけれど、なんとか乗り切ることができた。
新しい生活は、たくさんの新しい出会いに支えられていた。同じ編入生、内部生、教授...いろんな人が温かく迎えてくれたからこそ、とりあえずここまでこれたと思う。ありがとう。そして、これからもどうぞよろしく。
望んだとおりにならないこともあった。もちろん、そんなのは当たり前のことなんだけれど...夢とか希望とか信念とかそんなものを賭けているとやっぱり辛い。今でもどうすればよかったのか、何度も迷う。答えは出ない。上手くやりくりすることと、信念を貫くこと。どちらも"正しい"。ただ、僕に下された決定がどんなものであっても、夢も希望も信念もまだ残されている。まだまだやっていけると、信じるしかないし、信じたいと思う。
これからどうなっていくのか。まだ本当に分からない。将来のことなんてなんにも決まってない。ただ、新しい出会いと、そこに至るまでに関わってきたすべての人々に支えてもらってここまで来た事を忘れずに、僕なりにがんばっていきたい。

蛍を見に行った。
地元の緑地だけれど、結構たくさんの人が集まっていた。林の中、階段や石に気をつけながら、真っ暗な道を進んでいく。足下を光で照らすけれど、あまり光が強いと蛍は見れない。
暗闇の中で、蛍は小さく光っていた。一匹の蛍がまるで光をゆっくりと運ぶようにしながら飛んでいた。暗闇の中にぼんやりとした光を見つけた。きれいだった。
けれど、それは僕が想像していた"蛍"とは違っていた。きっとその場に来ていた人も同じではないかと思う。そこにいた蛍は数匹だけ。テレビで見る蛍は、大群が一斉に光の軌跡を描いている。だから、一匹だけを見ても蛍を見た気分にはならないし、なんだかがっかりした気分になることすらあると思う。僕も最初は大量の蛍が一斉に光る、幻想的な光景を想像していた。今回はたまたま、見た場所や時間の条件によって数が少なかったのかもしれない。けれど、たとえ一匹であっても、たとえ葉っぱの裏側のぼんやりとした光であっても、そのとき僕は確実に蛍を見ていた。想像でも、画面の向こう側でもなく、蛍はそこに存在していた。
環境保護を訴えるわけではないけれど、そういう"生の体験"っていうのは重要なことなんじゃないかなぁと感じた。教科書やテレビで見た気になっているものと、実際に目で見てみることのギャップは思っていたよりも大きかったし、そこで何かを感じることは記憶に残るものだと思うから。


蛍を見るために何台もの車が止まっていた。ヘッドランプやストップランプの光には何の興味を示さないのに、みんな小さな光を探しに行くっていうのはなんだか不思議。

5月は何処へ...

気がついたら一か月もほったらかし。
最低でも、一週間に一度くらいのペースは維持してブログを書きたいと思う。何かを続けるっていることが本当に苦手なので、ブログを書くことくらいは続けられるようにしたいなぁ。もう少しちゃんと考えてみると、ブログを書くっていうことを続けるっていうよりは、常に何かを感じ取ってそれを表現してみるっていうことを続けていきたいと思う。それがたまたまブログという形をとるというだけの話で。
毎日、多かれ少なかれ刺激がある。ぼーっとしてる間にいろんなことが通り過ぎてしまってるんだろうけれど、ちょっとアンテナを広げてみると、不思議なこととか、楽しいこととか、悲しいこととかがたくさん存在しているんだと思う。そうやって見つけたものに対してぼんやりと考えた事を、言葉に置き換えて表現できるようにできたらいいなぁと。言葉に置き換えることで、ぼんやりとしていた考えごとが明確になってくる。そうすれば、もっと理解を深めることができるし、自分が勝手に作り上げていたイメージを相対化して考えることができるのではないかとも思う。ブログを書くことを通して、ぱっと感じたことの内面にどんなものがあるのか、ゆっくり考えてみたいなぁと。

ということで、また更新を再開していこうと思います。

感染源を報道する必要性はあるか。

豚インフルエンザのニュースが飛び交っている。
その中で感染源についてのニュースを見た。初めての感染者として、映像には男の子が大写しになっていた。インターネットでも次のように報じられている。

「メキシコ発の新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)の感染が世界的に拡大する中、同国東部のベラクルス州が、今回の感染源ではないかという見方が出ている。養豚場がある小さな村に住む男児の症状が、「感染確認第1号」とみられているためだ。」(『メキシコ「第一号」は?…感染源、小さな村の5歳児に注目』YOMIURI ONLINE)

確かに、ウイルス発生のメカニズムを解明するために、感染経路を特定することは重要かもしれない。しかし、いくら感染源として一人の人間が疑われているからといって、それを報道する必要性はあるのだろうか。名前や映像までを公開して、伝えることが本当に必要だとは思えない。しかも現段階では、感染源をこの男児に断定できているわけではないのである。
もちろん、感染者の情報を管理して、更なる感染を防ぐことは必要である。しかし、推測や疑いの段階で名前や顔を出して、あたかも「感染源」であるような報道をするのは間違いだと思う。
感染が拡大するなかで、報道する内容が人々の心理に与える影響は大きい。例えば、「豚」インフルエンザという名称だけで、豚肉が危険という誤解を招くことが心配されている。注目を浴びているということを客観視するような形で記事を書くのではなく、根拠のある報道がなされていくべきであると思う。